きっと彼女はもう考えている。

自分が望むこと。

これまで考えられなかったのは事実かもしれない。でも、彼女は未来を描くことができることに気付いている。

気付けば、そのまま放っておくはずがない。彼女は、放っておけるような性格じゃないはずだ。

これまで、短くはない期間彼女と接していた日々が、そういう考察を弾き出した。

考えて、はっきりとした答えが見つかっているかは定かではなかった。しかし、今の彼女の目を見ていて、わかった。彼女自身、きっと答えは見えている。

何故、考えていない振りをして、歩むのを躊躇っているのだろうか。単純だとばかり思っていた彼女が、何故これ程複雑そうに笑っているのだろうか。

その理由を推し量ることなんてできそうにもないけれど、どんなに複雑そうな顔をしていても、麻衣が本音を話していないことぐらいわかる。


麻衣が僕に嘘を吐けるはずがないんだ。










 


16 虚像と実像











「これという夢はないけれど、あたし、就職するの」

相変わらずの笑みのまま麻衣は続ける。

「今も説明会とかで結構休ませてもらっているけど、本格的に就職活動しだしたらバイトにほとんど入れなくなると思うんだ。だから、今年いっぱいで辞めさせて欲しいんだけど、大丈夫?」

そんなことを言われるとは思っていなかったのか、ナルは僅かに眉根を寄せる。それをどう受け取ったのか、麻衣は申し訳なさそうに眉を下げた。

「急で無理そうなら一月いっぱいなら……」

バイトに入れると思うんだけど、と続けようとした言葉はナルに遮られた。

「わざわざ辞める必要はないと思うけど」

え、と麻衣は困惑したように言葉を詰まらせる。

「いや、でも、面接とかでほとんどバイトに入れないと思うし」

「就職活動が終われば時間は空くんじゃないのか?」

「確かにそうだけど、調査とかは厳しいと思うんだ。ゼミも忙しくなるから長い期間調査に付きっ切りになんて出来そうにないし」

辞めると言えばいつもの休暇を取るときのようにあっさりと承諾されると思っていた麻衣は、予想外のナルの反応に思わず言い訳めいてしまう。ゼミなんて今までも都合をつけてもらっていたのだから、調査に行こうと思えば行けるし、そもそも大して忙しくなるわけでもない。

「あたしが入る前もナルとリンさんと二人で大丈夫だったわけだし、あたしが居なくても大丈夫でしょ? 調査に行かなきゃあんまり仕事ないしさ、この事務所。調査に行かないならあたしがいる意味あんまりないしね」

麻衣は髪を耳に掛けながら「あ、調査に行ってもあんまり役に立たないか」と苦笑する。

「だから、就活が終わったら改めて違うバイト見つけようと思うの。就活の間の生活費ぐらい今の貯金で何とかなるし」

ナルはしばらく黙って麻衣を見詰めた。麻衣はその視線を居心地悪そうに受け止める。

ナルは何かを考えているようではあるが、何を考えているか麻衣には全くと言って良い程読めない。

「……別に就職活動が終わるまで休んでから、その後戻ってきても構わないけど?」

麻衣は眉間に皺を寄せる。

「猫の手でも借りたいときはあるからな」

肩を竦めながら言うナルのいつもの軽口も、麻衣にとってはこのときばかりは辛かった。ナルの軽口の裏に隠されたものがわかるから。


どうして。


どうしてこの人はこんなことを言うのだろう。



こんなにも、優しいことを。



決心が折れることのないようにか、麻衣は意識せぬ内に膝の上に置いた手を握り締めていた。

鳶色が揺れ始めたのを感じて、ナルはと開きっぱなしになりしばらく捲られていなかった本をパタリと閉じる。

「……どうしても、辞めたいのか?」

「辞めたい」

間髪いれずに麻衣は答え、ナルの眉はぴくりと動いた。

優しくして欲しくない、その分だけ離れ辛くなる。

「それは、お前の望むことか?」

「え?」

「本当にお前は辞めたいのか?」

どう言っても受け入れてくれず、麻衣は困惑する。ナルが何を聞きたいのかわからない。こんなのは彼らしくない。はっきりと辞めたいと言っているではないか。

「ナル? 何言っているの、今話したじゃない」

「建前は聞いた。だが、本心を聞いていない」

ナルの静かに響き渡るようなテノールは、一分の隙も見逃すまいとしているかのように空間を支配する。言葉を奏でる綺麗な唇に、麻衣は裁かれているような錯覚に陥り思わず俯いた。決して真実を見誤らない判事に問い詰められる被告は、こんな気分なのだろう。それは、こちらに疚しいことがあるから陥る感覚なのかもしれない。

「……だよ」

麻衣が俯いたまま発した言葉が聞き取れなかったのか、ナルは僅かに首を傾げる。

「麻衣?」

「……本心だよ!」

顔を上げたその先のナルは、変わらず静寂を纏ったように落ち着き払っていた。その落ち着きが妙に悔しくて、熱いものが内から込み上げてきて、何かがぱちんと弾けたような気がした。


塗り固めた意志も、呆気なく。


「だって、仕方ないじゃない。どうせ、就職したら辞めるんだし。それが、一年早まっただけでしょ!」

思わず仕方ないなんて言ってしまった。麻衣は苦々しそうに顔を歪める。

「麻衣が本当にそうしたいならいいんだ」

麻衣はどこか核心をずらしたような言い方だと感じた。何かを示唆されているような、答えへと誘導されているように思えてくる。

もし、先にどんな障害が待っているのかもわからない階段を登っているとしたら、ナルは階段の遥か上から自分を見下ろしているのだろう。この先に何が待ち受けているかを全て知っているのに何も言わずにただ様子を見守っているだけ。上って来いとも来るなとも言わず、どうするかは自分で決めろとただ見詰めてくる。答えを求めてもヒントしか与えない。きっとナルはそうだ。

「それに、ナルだっていつかはイギリスに行っちゃうんでしょう? こんな不確かな仕事、続けてられない!」

「それで?」

漆黒の瞳が真っ直ぐに射抜く。麻衣は、耐え切れず目を逸らしてしてしまった。

「……これが、本心だよ」

やっとの思いで出した言葉は、思ったよりも重く響いた。

「本当に?」

    本当だって言ってるでしょ!」

重ねるように繰り返される問いに、苛立ったように麻衣は声を荒げた。視線をナルへと戻すと、変わらず見透かすような瞳がこちらをひたと見詰めていて、麻衣は負けないようにと目に力を込め、睨み合う。

いや、睨み合っていると思っていたのは麻衣だけかもしれない。ナルは麻衣の強い視線をさらりと受け止めて、どこか呆れたような響きで小さく息を吐き出した。

「それなら、何故泣く」

麻衣は、顔が瞬時に真っ赤になる。

「泣いてない!」

必死に主張しても、ナルは無言のまま麻衣を見詰めるだけ。先は心地よかった沈黙も、今は追い立てられているような気がして、麻衣は向きになったようにナルを睨んだ。

    泣いてないんだから!」

ナルは何も言わなかったが、声が震えたことに気付かれてしまったような気がして、とてもとても悔しい。頭に血が昇っていき歯止めが利かなくなる気配がした。

できれば視線を逸らしたくなかったのだが、思わず下を向いてしまう。瞳の奥底から熱いものがどうしようもなく込み上げてきて、自分では制御できそうにもない。溢れそうになる言葉は、音を紡ぐ代わりに涙となって発散しようとしているらしい。堪えようという意志に反して膝の上できつく握られていた拳に涙がぽたりと落ち、透明な小さな円を描く。


ひとつ、またひとつと。


ぽんっと何かが麻衣の頭に触れる。反射的に顔を上げると頭の上にはナルの手が置かれていた。

ナルの白い指が伸びてきて、優しく麻衣の涙を拭った。ぱらぱらと睫から小さな雫が散る。

潤んだ視界で目元から離れていく指を追うと、いつも感情を乗せないナルの瞳が、どういう訳か、どこか困っているように見えた。



「泣くな」



涙腺を決壊させるのには、その一言で十分だった。











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