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15 彼女の結論
彼の前にティーカップを置くと、湯気がその跡を追うようにゆらりと揺れる。紅茶の香りがふわりと漂いながら、応接室を少しずつ侵食した。 「あたしも、一緒に飲んでも良い?」 そう尋ねれば、ナルは何故そんなことを訊くのか、とでも言いたげな表情をした。確かにいつも了承を得ずに勝手に一緒に休憩を取っていたのだが、今日は何となく尋ねてしまった。少し緊張しているのかもしれない。 麻衣の問いの意図について、瞬時にあらゆる考えを巡らせたのかどうか、神妙な面持ちの麻衣を見上げるナルの表情からは全くわからない。ただ、ティーカップを手に取るときでさえ本から視線を上げなかった彼が、今は無表情ながらも麻衣へと視線を向けていることは事実だ。そんなナルに肩を竦めながら「どうぞ」と言われ、麻衣はやはり少々緊張しながら一人掛けのソファに座っているナルの斜め前に座った。 静かな、とても静かな午後だった。 安原は大学で用事があるとかで休みを取っているし、所内を賑わせるイレギュラーズの面々も誰一人として訪れず、事務所の客である依頼者もほとんどいない。 心地よく維持された室温、じんわりと体に染み渡っていく温かな液体。白く眩しい光が窓から差し込む。きっと空は綺麗に澄んでいるだろう。 世界はこんなにも穏やかだっただろうか、思わずそんな風にさえ感じてしまう。 そんな雰囲気の中、緩やかに時間は流れる。不意に麻衣、と呼ぶ声がしたような気がしてナルの方を見ると、いつから見ていたのかナルの視線は本ではなく真っ直ぐとこちらに向いていた。 「何を考えている」 ナルの言葉に麻衣は虚を衝かれ、「へ?」と間抜けな声が出てしまった。 「ぼんやりとしているから」 ナルの方から静寂を破るとは。 驚きながらも麻衣はナルの問いに素直に答える。 「別に何も考えてないよ。本当に、ぼーっとしていただけ」 じっと麻衣を見据えていたナルはふいと目を逸らした。質問をしておきながら答えても反応しないとはどういう了見だ、と麻衣は口を尖らせる。何か文句を言ってやりたくなったが、ナルが気まぐれなのはいつものことなので、気にしないことにした。手元の紅茶を口に含むと、カップの中味がなくなっているのに気付く。おかわりが出来るようにと持ってきていたポットからカップに紅茶を注ぐと、より一層豊かな香りが広がって、再び揺蕩う世界への誘惑が訪れる。とろりと思考が融けそうになった頃、再び「麻衣」という呼びかけに現実に引き戻された。 「何さ」 何故だかばつの悪そうな顔をしたナルは、人を呼びかけたにも拘らず視線を逸らしたまま口を開こうとしない。麻衣は、さっきから何なんだ、と思いながらもそれを口には出さず、カップを口元に寄せる。 ナルはといえば、難しい顔をしたまま手元の本をじっと見詰めている。読んでいるのかいないのか。取りあえず頁は進んでいなさそうだ。ティーカップも先程から放置されている。 紅茶冷めちゃうんだけどな、と思いながら麻衣はこっそりナルを窺う。 「ナル?」 恐る恐る呼びかけてみたけれど、反応は返ってこない。 もしかして目開けたまま寝てんのかな? 麻衣が考えてしまった失礼なことが口に出てしまったのだろうか、急にナルが麻衣の方に目を向けた。 覗き込もうとしていた麻衣はナルとばっちり目が合ってしまい、思わずぎくりとしてしまう。 「麻衣」 怒られる? ナルは、どうしてだか、麻衣が変なことを考えている時に限って異常に勘が冴えるのだ。少なくとも麻衣はそう思っている。事実は麻衣の間の方が悪いのかもしれないけれど、どちらが正しいかは確かめようがない。 確実に鋭い眼光に晒される、と麻衣は肩を縮こませたが、予想外に睨まれることはなかった。むしろ、何故だかナルの目は戸惑うように揺れていた。 いつもなら、頭の回転の速さを最大限に活用した罵詈雑言を紡ぐはずの唇は、思いもよらない音を発した。 「大学を卒業して、やりたいこととかないのか?」 突然の質問に、無意識に咽喉がこくりと鳴った。別に緊張したわけではない、ただ単に驚いただけだ。 「どしたの、急に」 ナルがこのような、無駄と思われるような会話を率先してしようとするのは珍しい。だから、麻衣は思わず心配そうな顔になってしまったのだが、それをどう受け取ったのか、ナルは別に、と少々不満気な声で言うと眉間に皺を寄せた。柄にもないことを言っているということは、本人が一番よくわかっているらしい。 「……やりたいこと、か」 彼がどうしてそのようなことを訊くのかはわからないが、麻衣は取りあえず呟きながら反芻してみた。今までこういった話題をされると、妙に緊張してしまったが不思議と今は落ち着いている。 「そうだなぁ……」 うーん、えーっと、などと唸りながら、答えを中々返さない麻衣をナルは決して急かそうとはしなかった。麻衣を見詰める瞳は凪いだ海を思わせる。 麻衣はとうとう天を仰ぐ。まるであらゆる思考の中からたったひとつかみの言葉を捜しているようだ。 「あたしさ、両親いないでしょ?」 麻衣はナルへと視線を戻す。ナルは無表情のままで、麻衣はそんなナルを見て笑った。 「だからどうって訳じゃないんだけど、いつの間にか諦めちゃってたのかな」 麻衣は冷めつつあるカップの中を見詰めた。揺れる琥珀色がそれよりもやや明るい色を持つ彼女の瞳の中に映り、不思議な光沢を持った。 「……いや、違うか。考えるの忘れちゃってたのかも。生きなきゃ、生活しなきゃってことばっかりで、頭一杯になっちゃってた。一年後とか三年後とか、未来なんて考えられなかった。今日を凌ぐこと、明日にどうにか繋ぐことしかできてなかった。あたしの心には、それぐらいの余裕しかなかった」 麻衣はゆっくりと言葉を紡ぐ。自分でもどう言っていいのかわからないのだろう。じっくりと考えながら、言葉にする。 ナルはといえば特に相槌を打つこともなく、無言でただ麻衣を見詰めるだけだ。しかし、麻衣にはその無言が心地よく感じられた。 「大学に入学したときも、大学の学費はどうしようとか、生活費はどうしようとかばっかりで。幸い奨学金でなんとかできたんだけど」 あ、これはどうでもいい話か、と麻衣は含羞む。 「何がしたいかなんて考えてなかったなぁ。……うん。こんなにも早く終わるなんて思ってなかった」 何が、とナルは尋ねようか思ったが、麻衣が話し続けたので敢えて遮ることはしなかった。 「夢を追わなきゃいけないのかな。やりたいことがないってそんなにいけないこと?」 真っ直ぐに向けられた双眸は、いつもの彼女の色に戻っていた。潤んでいるようにも見えていたのだが、本当にただ単に紅茶が映り込んでいただけのようで、むしろさっぱりとした印象さえ受けた。 「さあ。……見えているのに見えない振りをするのは、愚かだと思うけど」 麻衣は静かに目を伏せる。 「ナルは強いね。でも、その愚かなことが大事なときもあるんだよ。……まぁ、あたしにはやりたいことなんて見えてないんだけどさ」 麻衣はへにょりと眉を下げると、肩を竦めた。 「だって、考えるの、忘れていたんだもの」 「……それなら」 麻衣はきょとんとした顔でナルを見返す。 「それなら、今から考えれば?」 ナルもその琥珀色を見返しながら、ころころと表情を変えて忙しい奴だ、と思いながら言った。 「やりたいことでも何でも、忘れていたのなら今から考えればいい」 ナルの言葉に麻衣は微笑んだ。それは以前の、高校生の頃の麻衣にはなかった類の微笑で、最近の彼女が偶に見せる表情だった。そういった笑いをしているときの彼女は、どこか、違うところにいる気がする。 「大学生活も楽しいし、このバイトも楽しい。あたし、満足しちゃったんだ、今の生活に」 「麻衣?」 「だからさ」 麻衣はそう言うとナルの正面に向き直って姿勢を正し、急に真面目な顔になった。 「一身上の都合で申し訳ありませんが、バイトを辞めさせてもらいます」 麻衣は深く頭を下げながら言う。そしてナルに向き直ると、彼女らしくない笑顔を作った。
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