未来のことなんて考えないようにしていたのかもしれない。『未来』には『現在』がないとわかっていたから。ずっとこのまま、なんてお伽噺みたいなことあり得ない。
本当はわかっている。
自分の望むこと。夢なんて大層なものではないけれど。由布子が聞いてくる夢、安原さんが聞いてくるやりたいこと、というのはこんなことではないのだろう。
わかっているからこそ、口に出すことはできない。漠然とした願いでしかないから、何も答えることができなかった。
あたしは今までの経験上、自分は現実的な考え方をする方だと思っていた。だけど、みんなの話を聞いていて自分の夢がどんなに現実的でないかを知る。自分の夢は、少女趣味で、夢見がちで、あまりに幼稚だ。
そして、あまりに自己本位だから。あたしが望むだけじゃ叶わないとわかっているから。諦めなければいけないから。
だから、誰にも言わないと決めた。伝えることはしないと決めた。
でも、溢れそうになる。言ってしまいたくなる。声を大にして叫びたい。

みんなと離れたくない。


ナルと、離れたくない。


言って現状を壊すのが怖い。今の環境がとても居心地が良いからこそ怖い。
言わなければ、黙って少し距離を置けば、偶に会うことぐらい許されるかもしれない。そんな卑怯で矮小な心が、あたしに口に出すなと言う。
馬鹿なことを言うな、と言われたら?
反応があればまだ良いかもしれない。あたしの言ったことなんて歯牙にもかけず、無視されたらどうする?
怖くて、怖くて。
こんなにあたしは弱かった?
言ってしまって、次に進めばいいじゃない。拒絶されても、めげなければいいじゃない。早く区切りをつけた方がいい。区切りをつけてしまって、就職でもなんでもすればいい。
そう思うのに。
きっとあまりにも大切になり過ぎて臆病になってしまったんだ。
傷つきたくない、と弱い心が震える。
あたしの夢も、いいじゃないか、と言ってくれる人もいるかもしれない。でも、あたしはわかってしまった。自分の考えの甘さも、意識の低さも。
あたしは、みんなと、並びたい。
彼と、並びたい。
でも他の望みが湧いてこなかった。彼らのような夢を見つけられなかった。その割に、ひとりきりになってしまうという不安だけは、底を知らないかのように溢れ出る。
焦るばかりでとても並ぶなんて出来そうにもない。そして、相変わらず、幼稚な夢だけが側に在った。
だから、決めたのに。この夢は夢のままで良いと思ったのに。叶わない夢のままで。
それなのに、彼はあたしのちっぽけな決心を、いとも容易く壊そうとする。

本音なんて初めからわかってる。









 


17 Living Today for Tomorrow












必死で防波堤を守っていた決心が脆く崩れ去る。
「……泣くなと言っているのに、何で泣く」
止め処なく溢れる涙に僅かにたじろぎながらナルが言った。
「仕方ないじゃん! 零れてくるんだもん」
「今すぐ止めろ」
間髪入れずに返される言葉に麻衣は目頭に必死に力を込めた。しかし、その努力は無意味に終わり、止めようとすればするほど涙は溢れてくる。
「止まんないもん!」
まるで涙が止まらないのはナルのせいだ、とばかりに麻衣はナルを睨みながら言った。いや、睨んだつもりだったけれど、本当に睨めていたかは怪しい。
ぼんやりと潤む視界に、ナルの不機嫌そうな顔が映る。その顔が本当に不機嫌なのか、それとも何か違う感情を表しているのか、今の麻衣には到底判断がつけられそうにない。
「そんなに辞めたいのか?」
「違う! 馬鹿!」
ナルが眉を顰める。麻衣は興奮してそれどころではないのか、ナルの様子には全く構っていない。
「じゃあ何だと言うんだ」
「……あたし、いっぱい考えた」
「何を」
「将来のこと、決めなきゃなって。みんな……友達も、真砂子たちも、ナルも、みんな、きちんとやりたいことがあるのに、あたしにはないし。でもやりたいことなんて、考えても、たくさん考えても、よくわからないし」
途切れ途切れの麻衣の言葉は、所々声が上擦っていて聞き取り難い。
「夢って何? あたしって何? ってずっと考えた。結局夢なんて見つからなくて、時間が止まればいいのにって非現実なことばかり考えて」
しゃくり上げる分いつもより言葉は拙く、話にまとまりもないけれど、それでもナルは彼らしからぬ辛抱強さで麻衣の言葉を待つ。もしかしたら、止め処なく溢れる麻衣の涙に、どう対処していいかわからなかったのかもしれない。
「こんなにも早く終わりが来ると思わなかった。ずっとこの生活が続くと思ってた。……でも必ず終わりが来ることはわかってた。ずっとこのままでいたいけど、事務所は絶対いつか閉鎖されちゃうし。だから……だから、違う道を考えなくちゃいけないって思ったの」
「それで?」
「それで、考えたんだけど、やっぱりみんなとバラバラになるのは嫌で。でも仕方がないって自分に言い聞かせた。卒業したら事務所辞めなくちゃいけないし、就職しちゃったらみんなと会うことなんてきっと簡単じゃない。でもそんなの淋しすぎて」
「麻衣が会いたいと言えば飛んでくる暇人が何人もいるだろう」
麻衣は緩く首を振る。
「確証が欲しいの。事務所に居ればきっとみんな会いに来てくれる、っていう確証がある」
ああ、そうか。麻衣は自分から手を伸ばすのが案外下手なのだ。
ナルは妙に納得する。
「それなのに、何故『今』辞めるになるんだ」
「慣れなくちゃいけないなって思った」
「何に」
「みんなと会わない生活。事務所に通わない生活」
麻衣は恐らく別れに弱い。けれど、十分なくらいに別れを知りすぎている。
何があっても側にいてくれる家族を失った麻衣は、今もっとも身近にある存在を失うことを恐れている。出来るだけ悲しみを和らげるために徐々に離れて行くという選択をしたのだろう。それが例え本心に背くものだとしても。
「だから辞めようって決めたのに。なのに、ナルが……」
せっかく止まりかけていた涙が再び溢れる。考えるなんて慣れないことをするからだ、とナルは思ったが言わないでおいた。その代わりのようにナルは微かに溜め息を吐く。
「つまりは、辞めたくない?」
麻衣は反応しない。俯いたままただ泣くだけだ。
肯定もしないが、否定もしなかった。それをナルは肯定と受け取る。
「それなら、辞めなければいいだろう」
簡単に言うナルに麻衣は無性に腹が立った。
「……いなくなるくせに」
麻衣がナルに聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟く。
「麻衣?」
キッと顔を上げた麻衣は唇を噛み締めていたが、ナルを力の籠った眼差しで見上げ、堪え切れないというように口を開く。
一番遠くへ、しかも恐らくあっさりと去ってしまう人に簡単に言って欲しくない。
「いつかはいなくなっちゃうくせに、勝手なこと言わないでよ! このまま事務所で働き続けて、ナルが急に事務所閉鎖しちゃったら、あたしはどうすればいいの? そのときに仕事探せって? 無茶言わないでよ!」
感情を高ぶらせる麻衣に対して、ナルはどこまでも平静だった。顔の表情も、喋る口ぶりも、故意に感情を削ぎ落としているかのようだ。
「生活が保障されればいいんだな」
突然にも思えたナルの言葉を麻衣の興奮した頭は上手く処理できなかった。
今日のナルはどうしたのだろう。あまりに彼らしくない言葉ばかり聞く気がする。
「え?」
ぱちんと麻衣の大きな瞳が瞬く。その拍子に睫の先の水滴もぱちりと跳ねた。ナルは滴が光に反射しながら描くその軌跡を追うかのように視線を動かす。
「だから、麻衣は今の仕事を続けたい。でもいつなくなるかもわからない事務所には勤めていられない。そういうことだろう?」
「大体……そんな感じ?」
麻衣はナルの様子に訝りながら僅かに首を傾げる。
「保障されれば続けたいんだろう?」
「は? ま、まあ、そうだけど」
ナルは膝の上に置いていた本をぽんとテーブルの端に乗せると、腕を組んでソファの背に上半身を預けた。
「……僕としては非常に不本意なんだが」
麻衣は、何だその前置きは、とばかりに怪訝そうにナルを見る。
不本意と言ってはいるが、眉間に皺を寄せるでもない。静かに目を伏せるとあくまで淡々とナルは告げる。
「目について仕方ないんだ」
麻衣の「何が?」と問う声には、はっきりとした答えは返ってこない。
「人間というものは環境に適応する動物だ。迷惑なことに僕も例外ではなかったらしい」
麻衣はナルが何を言いたいのか、訳がわからず首を傾げるばかりだ。一方のナルは、麻衣の疑問を全く気にする様子もない。
ハンカチを握って鼻を啜ってはいるが、麻衣の涙はもうすっかり止まってしまったようだ。
「普段難しい顔をしない暢気な奴が変に考え込んで浮かない顔をしているとこちらまで調子が狂う」
「暢気ってあたしのことか!」と条件反射のように噛み付こうとしたが、それすらもさせずにナルは続ける。
「麻衣が悩み続ける限り僕にまで影響が及ぶ。麻衣が悩み続けるのは何故か? それは将来に不安があるからだ。それを解消すれば、僕への悪影響もなくなる。    それならば話は早い」
「はい?」
伏せられた瞼がゆっくりと持ち上げられる。相変わらず睫毛長いなぁと麻衣はどこか場違いなことを考えながら、その様子に見入ってしまった。
顕わになった漆黒の瞳は、静かに麻衣を見据える。合わせられた視線に、麻衣の心臓はぴくりと跳ねた。ナル自身が認めた彼女の第六感が敏感に何かを察知したのかもしれない。
「結婚すればいい」
麻衣は呆然と口を開ける。
聞き間違えたのだろうか。うん、そうであるに違いない。
「は? 結婚?」
否定されることを期待して聞き返したのだけれど。
「そう、結婚」
麻衣の疑問は速やかに否定される。有り得ない人物からのあまりに有り得ない単語に、麻衣は思わず「大丈夫?」と問い掛けそうになった言葉をなんとか飲み込み、ここは首を傾げるだけに止めておいた。
「あたしが?」
間の抜けた質問をしてしまった、と麻衣は自分でも思う。案の定ナルは察しの悪い奴だな、とばかりに少し眉を顰める。
「他に誰がいる」
今度は麻衣が眉を顰めた。
当たり前のように言わないで欲しい。そんなの、しようと思ってできるものではない。
「誰と」
問えば、ナルはふいと顔を反らし、思案するように静かに眼を伏せた。図られたような静けさが妙に緊張する。再びナルと目が合った瞬間、何故だか麻衣の心臓が早鐘を打ち始めた。

何かが始まる予感がする。


「……僕と?」


驚きは一呼吸遅れてやってくる。
声が耳に届いて、頭の中で反芻して、言葉を噛み砕いて、それからようやく理解する。もっとも、このときは理解なんて到底出来そうになかったけれど。
「はいぃいいぃいいい!?」
狭い事務所に麻衣の声が響く。
ナルは麻衣の驚きの声など全く気にも止めず、優雅に紅茶を飲んでみせた。麻衣はナルの動作を見るまで紅茶の存在すら忘れていたというのに、彼は異常なほど落ち着いている。かちりと小さな音を立ててカップがソーサーに置かれるのを麻衣は口を半開きにしながら見届け、恐る恐る訊いた。
「わ、わんもあぷりーず?」
「ひどい発音だな」
「う、うるさいやぃ! もう一度おっしゃってはいただけませんでしょうか!」
「だから……結婚すれば?」
他人事のようにナルは言う。
「誰と?」
麻衣が尋ねれば、今度は何の思案もなく返される。
「僕と」
少し投げやりな言い方であったような気はしたが、目をしっかりと見詰められて返ってきた言葉に、麻衣の顔はみるみるうちに赤くなる。それはもう、これ以上ないのではないかというくらい真っ赤に。

結婚?


ナルと?


結婚というだけでも自分とはかけ離れた単語である気がするのに、その相手が、ナル?
もはや現実味なんてあるわけがない。理解できない頭とは反して、身体が先に反応したようだ。顔だけでなく全身が火照っているのを感じる。麻衣は慌てて両手で頬を包んだ。
ナルはといえばいつもと変わらない無表情で、こんなときですら感情を窺わせないなんてむしろ尊敬に値する。
麻衣の慌てた様子を眺めながら、ナルは思い立ったようにふっと身を乗り出した。縮められた距離に、麻衣はびくりと身を引くが、背に固い感触がして逃げ場がないことを知る。ソファの背もたれにどれだけ身を押し付けようと、距離は依然と短いままで。先よりも近い位置にあるナルの瞳に、麻衣は吸い込まれそうだった。
彼の瞳が完全な黒ではなく僅かに青いことを知ったのは、何年前のことだろうか。
ナルの綺麗な唇が、どこか不敵にさえ思える笑みを模った。

「異存があるか?」

ありまくりだ、異存。
麻衣は頭を混乱させながらも、その片隅で冷静に突っ込む自分がいるのを感じる。だが、次の瞬間ぽろりと口から出た言葉に、麻衣は自分でも驚くこととなる。

「ない、です」




明日が、駆け出した。











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