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14 固められた決意
季節は巡り、短い秋を迎えると安原の司法試験は終わり、彼は相変わらず底の掴めない笑顔で合格報告を行った。それは周囲の予想通りであったにも拘わらずやはり皆一様に驚き、そして喜んだ。それから更に月日が過ぎると景色が白ばむ冬を迎え、短い調査をこなせばいつの間にか年が明けるのを待つだけとなった。 暦の上では師走と呼ばれる時期ではあるが、この職場ではあまり季節は関係がない。忙しさの基準は調査があるか否かであり、先日の調査の事後処理が終わった今はあまり忙しくはない。もっとも、データ処理に追われているナルやリンは忙しそうだがそれは常のことだ。この時期に依頼に訪れる客も少ないので、どちらかと言うと麻衣と安原の仕事は普段より少ないぐらいだった。 司法試験を無事に終えた安原は、ほぼ大学入学時と同じ程度の頻度でバイトに入っている。そろそろ大学の卒業論文に追われても良さそうな頃だが、安原に世間一般の基準は当て嵌まらない。そんなことを心配しても余計なお世話というものだろう。 一方の麻衣はといえば、夏よりも更に勤務日数は減っていた。しかし、安原が出勤していることが多いため以前よりは顔を合わせる機会は増えている。それでも一週間に一、二回程度なので、数年前を考えるとかなり少ない。 今日は一週間ぶりに勤務日が重なり、二人は中々訪れない依頼人を待ちながら、些末な事務処理を行っていた。 「どうぞ」 安原は麻衣のデスクにカップを置く。慣れた琥珀色を思わせる香りに麻衣の顔は自然と綻び、「ありがとうございます」と言ってカップを持つと早速口をつけた。 「谷山さん、以前にも増して忙しそうですね」 何が、とは言わなくてもわかる。麻衣のここ最近の忙しい理由といえば言わずもがな、就職活動だ。 「今週特に忙しかったの?」 「そうですねぇ。でも、まだ本格的には始まってないんですよ」 「へぇ。今の時期の面接はちょっと早い企業だけなのかな?」 「うん。あとは説明会が多いかな」 「頑張ってますねぇ」 「卒業以降の人生が懸かっているので、必死です」 麻衣は苦笑する。 「やっぱり、不況の影響ってあるのかな?」 「不況不況って言われても今まであまり実感なかったけど、今ならわかりますね。採用数とか、求人している会社数とかやっぱり違いますもん」 「そうかぁ」と言うと安原はカップを傾けた。それに連動したように麻衣も紅茶を一口飲む。 「面接どう? 大変って聞くけど」 「……ちょっと人間不信」 麻衣が口を尖らせながら言うと、安原が少し首を傾げた。 「おや、それは?」 「ずばずばと容赦のないことを訊かれて……」 本当に気が滅入っているのか、麻衣は深い溜め息を吐くと項垂れた。 「あぁ、厳しいところは厳しいらしいからね」 「そうなんです。『そんなこと訊かなくてもいいでしょ!』って、思わず口が滑りそうになっちゃった」 颯爽と立ち向かう麻衣の姿が容易に想像出来て安原は思わず笑い声を漏らす。何をもって安原が笑ったのかを敏感に嗅ぎ付けたのか麻衣は「笑い事じゃないです」と頬を膨らませた。その麻衣の表情に安原は更に笑う。一通り笑い終えると少し間を空けて、「どんな会社受けてるの?」と訊いた。麻衣はこくり、と唾を飲み込む。以前尋ねられた問いを思い出した。
「色々ですよ。事務系が多いですけど。このご時世ですからどこかに内定もらえれば儲けもんです」 安原が何か言いたそうな気配を見せたが、麻衣は気付かない振りをした。視線を感じながらもカップに口をつけると温かい紅茶を飲み下す。その動作がとても無機質な作業に急に思えてくる。幾度かその作業を繰り返すと、 「寂しくなるね」 唐突に安原が言った。思いも寄らないその言葉に、麻衣はカップから口を離す。 「就職しちゃうってことは、谷山さん、この事務所を辞めるってことでしょう? そうなると、寂しいな」 問うように見詰めてくる麻衣に、安原は微笑み返す。 「恥ずかしながら、いつまでも谷山さんはこの事務所にいるような気がしていたんだ。そんなことはあるはずもないと頭ではわかっているのに」 安原の言葉に麻衣はすぐには反応することが出来なかった。安原を見詰めているようではあるが、とてもぼんやりとしていてその瞳に何が映っているのか安原にはわからなかった。むしろ、何も映っていないのではないかと感じるほど麻衣は反応を示さない。 安原も一時何も言わずに麻衣を見返していると、不意に麻衣は安原から視線を逸らした。手元のカップに視線を落とすと、その視線と合わせたかのように声をぽつりと落とした。 「……あたしも」 「え?」 「あたしも、いつまでもこの事務所で笑っているんだと思ってた。みんなやリンさん安原さんがいて、ナルがいて」 麻衣の視線はカップの中を見詰めているにも拘わらず、どこか遠い目をしていた。決して触れることの出来ないものに手を伸ばすのを止めてしまったような表情だった。 「我儘な注文を聞きながらみんなにお茶を出して、調査で大変な思いをしながらも笑い合って。いつまでも、そうしているんだと思ってた。そんなこと、いつまでも続くはずはないのに」 「谷山さん?」 麻衣は安原の呼びかけにふわりと微笑み返す。安原にはその笑顔が、いつもの僅かにあどけなさを残した、花咲くような笑顔ではなく、どこか大人びたものに見えた。 「忘れていたんです、紅茶はいつか冷めてしまうことを。だから、紅茶を新しく淹れなおすように、新しく始めなきゃ」 麻衣の笑顔に安原は笑い返すことは出来ず、かといって何も声を掛けることも出来なかった。安原には麻衣の割り切ったような言葉が、諦めているようにも聞こえた。 「飲み終わりました?」 「……え?」 「紅茶。おかわり淹れてこようと思っているんですけど、安原さんいりませんか?」 麻衣は自身のカップをトレイに載せると、立ち上がりながら言った。 「あ、じゃあお願いしようかな」 「かしこまりましたー」 安原はいつもと変わらない様子で給湯室へと姿を消す麻衣のその動作を目で追う。 いつ事務所が閉鎖されるかもわからないこの仕事は、ずっと続けられるという確証を持たない。安原は麻衣に事務所を辞めるなと言いたいのではない。もちろんこの居心地の良い空間を失うと考えると寂しいが、彼女に保証のないこの仕事を続けることを勧めることは出来ないということは、安原とて重々承知している。安原は麻衣に後悔をして欲しくないのだ。ここに未練を残したままだと、彼女は次へと進めないのではないだろうかという懸念がある。きちんと清算したほうが彼女にとっても、あるいは彼にとってもいいだろうと確信していた。 安原は遠くに聞こえるカチャカチャという陶器の音に意識を遣りながら溜め息をついた。 どうにかならないだろうか。 安原はここにきて少々焦っている。もう彼に残された時間は少ない。司法試験に見事合格した安原は、三月にこの事務所を辞める予定である。 安原がどう頑張ったとしてもどうしようもないことだが、短くはない年月を共にした仲間として、友として、何かしてあげたいと思ってしまう。麻衣とナルの二人と近くで過ごしていると、彼らがどれだけ精神的にお互いを必要としているかが見えてくる。安原はこのことを本人たち以上にわかっているつもりだ。第三者であるからこそわかるのかもしれないし、何か出来るのかもしれない。麻衣は恐らく自分がどうしたいのかわかっているのだろう。しかし、実現する上で不可欠なナルのことを思うと、それがどれだけ現実的でないかということを考えて諦めてしまっているのだ。一方のナルは、自分が麻衣を必要としているなんて思ってもいないだろう。彼に言っても「仕事上なら多少は」と澄まして言うに違いない。安原はここ数ヶ月ナルに気付かせようと働きかけてきた。未だ気付いていないのか、それとも気付き始めているのか、ナルの行動からはまったく読めない。 安原が再び深い溜め息を吐いたところで、麻衣が給湯室からトレイにカップを三つ載せて出てきた。 「どうぞ」 明るい声で差し出す麻衣からカップを受け取ると、安原は微笑んだ。 「ありがとう」 安原の礼に麻衣は笑顔で返す。 いつもと変わらない様に見える。だが、安原には麻衣が何かを振り切ろうとしているように感じてならなかった。そう、何かを決心しているような。 「ついでにナルにも渡してきますね」 所長室へと向かう後姿を追いながら、安原は給仕されたばかりのカップに口をつける。舌によく馴染んだ味はじんわりと体に染み渡った。リズミカルなノック音の後に所長室の中へと姿を消す麻衣を見送ると、安原は手元の紅茶を見詰める。 「紅茶も無理矢理淹れたんじゃ、こんなに美味しくはならないんですけどねぇ」 安原の呟きを聞く者は誰もいなかった。
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