13 パンドラの箱












「は!?」

笑顔で「仕組んでみました」と言う安原に滝川は唖然と口を開ける。

「一向に進展しない二人がじれったくてじれったくて」

「はあああ?」

「もう一人の方には以前揺さぶりをかけてみたんですが、こちらが動くかどうかに懸かっているんですよねぇ」

安原は「うーん」と唸ると、わざとらしく腕を組み片手で顎を触る。滝川は頭の中が混乱し過ぎて、疑問と一緒に怒りも混ざりこんでしまったようだ。掴みかからんばかりの勢いは早々にどこかへ消えてしまっている。

「あのー、オジサンには全く話が見えないんだが」

滝川はおずおずと尋ねてみるが、相手はさらりと笑顔でかわす。

「上手くいったら教えますよ」

安原はちらりと横目で所長室を見た。

「念には念を、か。滝川さん、今は何も聞かずに協力してください。谷山さんのためです」

安原は早口で言うと、滝川が断れない必殺の言葉を使う。滝川は「どういうことだ」と詰め寄りたい気持ちを唾と一緒に飲み込むと、声を低く落とした。

「麻衣のためになるんだな」

「恐らくは」

   わかった。何をすれば良い」

「僕の話に合わせてくだされば結構です。谷山さんが将来のことで不安定になっているということさえ念頭においていてくだされば」

「了解」



「夏前辺りからずっと様子が変なんですよね〜」

「誰がだ?」

気のないような滝川の相槌に安原は身を乗り出すと、右手の人差し指をぴんと立てた。「ずばり」とでも言い出しそうな雰囲気だ。

「谷山さんです」

「麻衣が? 何かあったのか?」

「詳しくは教えてくださらないんですけど……将来のことで悩んでいるらしくて」

「将来のことって、まだ麻衣は三年生だろう」

「大学も三年になれば就職活動をしている時期ですよ」

滝川は「ああ、そう言えばそうか」と昔を思い出すように言う。

「でも、どうして悩む必要があるんだ? やりたいことをすればいいじゃないか」

「それが、やりたいことが見つかってないみたいなんですよね」

「ゆっくり探せば良いさ」

鷹揚な様子の滝川を、安原は急かすように眉間に皺を寄せた。

「そうは言っていられませんよ。周りが動き出すと焦って、自分も早く進路を決めないと、と思ってしまうんですよ」

「そういうものか?」

「まだハタチそこそこですからね。それに谷山さんはご両親が亡くなっているという面から、危機感が強くなってしまうんでしょう」

「事は深刻なんですよ」とでも言いたそうな表情の安原に釣られるように、滝川の顔も深刻さを帯びてきた。

「そうだな……」

「そしておそらく谷山さんにとって今の状況はかなり心地良いはずです。身寄りのない中たくさんの仲間に囲まれで、仕事も順調、お給料も適度に良いし雇用者とも気の置けない間柄を保っている」

「そうかもしれないな」

滝川の言葉にはそうだといい、という願いが込められていた。

「ただ、将来のことを考え始めてしまった。おそらく谷山さんにとってベストなのは、今の状況を維持することです。今のままこの事務所で働いてこの事務所で仲間と笑い合う」

滝川は黙って安原の言葉を聞いていた。これは安原の仕掛けた小芝居なのだということはとっくにもう忘れてしまっている。それほどの真実味が安原の言葉にはあった。

「しかし、谷山さんは今のベストな状況が永遠に続くものだと信じてしまえるほど現実を知らないわけじゃない。彼女はある面ではかなりリアリストであると僕は思います。このぬるま湯が永遠に続くとは思っていない。お湯がいつかは冷めて水になってしまうことを知っているんです。谷山さんは滝川さんを初めとする仲間たちやリンさん、それに所長がそれぞれの道を歩んでいることを知っているんです。みなさんが段々と忙しくなり、疎遠になってしまう。そして最後には所長がイギリスへ帰国しこの事務所を閉鎖する。そんな未来が恐らく彼女を悩ませているのではないでしょうか」

「そうだな」と滝川は声を低める。

「確かに俺も最近忙しくなってきたし、他の連中も似たようなもんだろう」

「ええ、それを裏付けるように僕もここ数ヶ月は休んでしまいましたし……。しかも、僕の休職の理由が将来に関係することでしたから余計に」

「司法試験か」

滝川の短い指摘に安原が神妙に頷く。

「谷山さんは僕には確固とした将来設計があるように見えたでしょうからね」

安原は苦笑しながら「実際がどうかは置いておいて」と付け加える。そんなに立派なものではないが、今はそんなことは関係のないことだ。

「さらに、所長の一時帰国なんて、とどめだったでしょうね」

「ナルちゃんはいつ本格的に帰国するかわからないからな。ある種の時限爆弾のようなものだ。いつ開くとも知れないパンドラの箱が、開くのか開かないのかに怯え、更に開いたときのことを考えて怯える。そんなとこだろうな」

「……谷山さんは保証が欲しいのかもしれません」

「保証?」

「ええ。もう孤独にはならないというしっかりとした証拠が」

二人の間に沈黙が落ちた。

すると、ふと安原は顔を上げる。それにつられたように滝川も顔をあげ、安原の視線の先を追った。そして、その先にいる人物を見て、この胡散臭いけれど真実味のある芝居の意味を悟った。

成る程、そういうことか。

「よ、久しぶりだな」

相変わらずの黒衣の人物は、相変わらずの無表情を不快そうに崩した。

「お暇そうですね」

機嫌の悪さを隠しもしない声に、妙に懐かしさを覚えて滝川は苦笑する。その苦笑を見たナルは眉間の皺を深くした。

「それがそうでもないんだわ、これが。その証拠に、お前さんと最後に会ったのは帰国前だろ?」

ナルにとっては騒々しいだけでしかないあっけらかんとした声に、思わず溜め息を零す。

「……お忙しいなら、わざわざこの事務所にいらっしゃらなくても良いと思いますが」

「ムスメに会いたくてね」

「麻衣なら今日は休みです」

「それは少年に聞いたよ。残念この上ないな」

「ではお帰りになられては? お忙しいようですし」

「俺ってば少年にも会いたかったんだわ」

滝川は不敵とも思えるような笑みを浮かべながら、「そんでナルちゃんにもな」と付け加える。この科白を麻衣が聞けば馬鹿のように喜び、「あたしもぼーさんに会いたかったー! ぼーさんに会えなくて本当に寂しかったんだからね」と騒いだだろう。そして、客でもない人間に嬉々としてアイスコーヒーを給仕している姿が目に浮かぶようだ。麻衣にとってははしゃぐほど嬉しい滝川の訪問も、ナルとしては迷惑極まりない。

全く怯む様子のない滝川に、ナルはこの問答の時間を無駄と判断したのか、それ以上は何も言わなかった。その代わりとばかりに、先程よりも更に深い溜め息をひとつ吐くと、安原の方を見る。

「安原さん、お茶を」

「かしこまりました。所長室に?」

小さく頷くと、早々に所長室の扉は閉じられた。開くときはまったく聞こえなかった扉の音が、存在を示しているかのように音を立てる。その音は決して荒々しいものではなくどちらかと言えば静かなものであったが、確実にこちらと世界を遮断しようという意思を感じさせるものであった。



「ご苦労様です」

所長室の扉が完全に閉じるのを確認してから、安原は滝川に向き直った。やや緊張しながらドアの動きを見届けていた滝川は、ふう、と息を吐く。

「中々役者ですねぇ、ばっちりでしたよ。ミュージシャンで喰えなくなったら役者でも目指してみてはいかがですか」

相変わらずの笑顔を湛える安原を嫌そうに見返すと、滝川は脱力しながらソファの背凭れに身を預けた。突然の小芝居は、非常に心臓に悪かった。

「うるせぇよ。ミュージシャンも役者もどっちもどっちだろ」

「でしょうね。というか、そんなのはどうでもいいんですよ」

滝川は、「お前が言い出したんだろうが」と内心でごちた。口に出す気力はもう残っていない。

「んで? 説明の続きは?」

「さっきの会話で大体はわかったでしょう?」

尋ねるような形に語尾は上げられたが、滝川には全く尋ねられているようには思えなかった。今にも、「だって滝川さんですもんあれくらいわかるでしょう」という幻聴が聞こえてきそうだ。

「大体は、な」

「それにしてもパンドラの箱とはよく言ったものですね。開けてはいけない箱、か。開けないままだと平和でいられるのに、開けなければ物語は始まらない」

「……さっきの小芝居で、本当に麻衣のためになるのか?」

「そうですねー。ここまでして所長に動いてもらわないと、僕非常に困ってしまうんですよね。良心の呵責に苛まれながら谷山さんを追い詰めた意味がなくなってしまいます」

さらりと言われても真実味は全くなく、滝川の視線は自然と胡乱なものになってしまう。芝居がかった安原に滝川が、「さよけ」と呆れた様子で返しても安原は気にした素振りも見せずに続ける。

「まあ、もう暫く待っていてくださいよ」

誰も解けないと言われている大きな難問を今から解いて見せますよ、とでもいうような自信が言葉の端々に感じられる。そして、安原は笑みを刻むとすっと立ち上がった。掴み所の見えないところはいつもと一緒だが、常に見せる越後屋スマイルとはまた一味違った笑みであった。ソファに座っている滝川が自然と安原を見上げると、ちょうど逆光となって益々不敵な印象を与える。

「パンドラの箱には、最後には必ず希望が残っているものですよ」











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