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08 彼女の位置
本当はもっと早く伝えるつもりだった。 ナルは安原の言うことなど全く気にも留めていなかった。いや、正確には気に留めていないつもりだった。 だけれど、安原との電話を終えて所長室を出れば、いつも迷惑なほど明るい麻衣が珍しく浮かない顔をして考え込んでいて。しかも、確かに安原の言葉どおり追い詰められているようにも見えた。 何故だか麻衣の暗い顔が引っ掛かったナルは、喉まで出掛かっていた帰国の話を気がつかない内に呑み込んでいた。 更に何故だか、その後も中々帰国の旨を伝えることが出来なかった。
感情を表に出さないので誤解されやすいが、ナルとて他人を全く気にしないわけではない。調査中に関係者や調査員が危険に晒されれば庇うぐらいの正義感はあるし、頑張れば労わりの言葉を掛けてやらないこともない。感謝をすれば一応の礼は述べる。つっけんどんな態度だったり不遜な口調だったりということを無視すれば、ナルは筋を通すところはきちんと通している。 ただ、彼は無自覚の内に明確な境界線を引いているのだ。 相手が自分にとってどういう存在か。例えばナルの世界で最も多い人間は、歯牙にかける必要性のない、言わば彼の世界には存在しない人間である。他には、仕事相手や家族、師と呼べる人間などがいる。 ナルでなくともこのぐらいの線引きはしているが、彼は徹底している。取るに足らない人間だと認知すれば、本当に露ほどにも相手にせず境界を引く対象にもしない。全く立ち入らないし自分の領域にも立ち入らせない。パトロンでしかないと見なせば、出資をしてもらう上で必要性のある話しかせず、その関係以上の干渉を許さない。 そして今回の麻衣のことは明らかに境界外であった。 相手が仕事の関係者であれば仕事のことに関しては当然口を出すが、それ以上のことには関知しない。調査員のプライベートなことに振り回されたくないし、立ち入るべきではない。 彼のカテゴリーには友人や恋人、つまり自分の好意の認識を必要とするものは存在しない。大雑把に言えば嫌いか、嫌いでないか。それだけでしかない。 そして、更に細かく分けたとしても仕事関係や学校関係などの表面上の枠しか存在せず、また、それ以外の枠が必要であるとも思えなかった。思えなかったと言うよりは、思ったこともないと言う方が適当だろう。そんなことを考える機会もなかったし、今まではそのカテゴリーだけで充分事足りていた。
しかし、今考えれば日本に来てからというものどこか狂ってしまったように思える。 仕事上での協力者でしかないはずの連中は、仕事がなくとも事務所に度々現れる。ナルは彼らを鬱陶しいと思っている反面、完全に閉め出してしまえないのが事実だ。境遇を知って気まぐれに雇った調査員でしかない少女も、ナルの私生活にまで口を出してくるのだから溜め息を禁じえない。
何故か切り捨てられない自分に苛立つことはあったが、それでも、その者たちはカテゴリーに一応の名前を付けることは出来る。
カテゴライズに対して何かを尋ねられたことなどなかった。 それについて考えたことなどなかったので、ナルは人間を選んで分けていることすら気付いていなかった。日々の無意識の結果がそうなっているだけで、意識的に誰かを自分の中での特定のポジション
だが麻衣がどんな位置に居るかなんて、ナルには到底わかりそうにない。 こんなことに煩わせられたくない。人間関係なんてどうでもいい。
努めて他人との関わりを持とうとしなかったナルは、他人との関わり方を知らない。声を掛けるのも、受け答えをするのも、全てジーンの仕事だった。ナルは黙って横に立っているだけ。それだけで済んでいたのだが、今は違う。 突然隠れる場所を見失って、ナルはどうすればいいのかわからないのだ。世間一般の人間が当たり前のようにわかることも、彼には複雑な機械の扱い方の何倍にもわかり辛いことになったりする。
これは事実だ。 だが、思い詰めている風の彼女が気になっているのも事実。 どちらも事実なのだから仕方がない。 事実を受け入れずに目を逸らすなんて愚かなことだ。事実を拒み続けていては間違った答えしか生み出されないことは自分でもわかっている。 だがこんなことに煩わされている自分も愚かだ。 拒絶できない自分が腹立たしくもあるのに、何故拒絶できないのかはわからない。 わからないものはわからない。 不安そうに帰ってくるのか、と聞いた彼女。 その真意を推し量ることは出来ない。何かに不安がっていることはわかる。でも何故不安がっているのかがわからない。何に不安になっているのかわからない。 これがジーンならわかったかもしれない。何か声を掛けてやることも出来たのかもしれない。 ジーンに対人関係の全てを任せていたつけが回ってきたのかもしれない。
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