07 孤独への扉











 

ナルが麻衣に帰国の旨を告げたのは、安原の電話から三日後だった。

「お茶」と言うときと全く変わらないいつもの無表情で、目が合った序でかのように言うその様子は、「あ、そういえば」とでも文頭に付け足しているような具合だった。

麻衣はデスクの横に立ってこちらを見下ろしているナルを大きな瞳を揺らしながら見上げていた。

   そう」

「二、三ヶ月帰国することになった」というナルの言葉は頭の中で反響するだけで妙に根を張らずに、一呼吸遅れた返事しか出来なかった。

三ヶ月という今までにない長い期間も、長過ぎて想像すら出来そうにない。

何を言うためか自分でも気づかぬ内に口を微かに開くと、何も言うことがないのに気付いた。

仕事のことなど聞くべきことはたくさんある。でも今思わず開いてしまった口は何か他のことを言い出そうとしてはいなかっただろうか。自分には言う資格などない何かを。

それきり麻衣はただただナルを見上げた。不安そうに自分を見つめる麻衣を訝しく思ったナルは、眉間に皺を寄せながら僅かに首を傾げた。射干玉のように黒い瞳が更に深い色味を見せる。

「……麻衣?」

窺うような視線にはっとした麻衣はなんでもないと言うように緩く首を振ると、それを証明するかのように努めて明るく笑った。
「ルエラさんたち、喜ぶだろうね」

「さあ。連絡したら、やっと帰ってくるのね、とは言われたが」

「ほらぁ。年末にも年始にも帰らなかったからだよ」

「12月は調査が入ったからな。年末年始はそのデータ解析に追われていましたので」
仕方がないと言うようなその様子に、麻衣が「研究馬鹿」と思わず感じたのももはやいつものことだ。呆れにも似たその気持ちを溜め息と共に吐き出し、言葉にすることをやめた。

「やっぱり寂しいんだよ。ご両親はもっと大切にしないと」

切実な言葉に咎めるような、諭すような気持ちを乗せて麻衣が言う。ナルはそれに対しては軽く肩を竦めることしかしなかった。

「そういえば、いつ出発?」

「三日後」

さらりとあまりに性急な日数を告げたその言葉に麻衣は目を剥く。
「三日後!? もっと早く言ってよ!」

三ヶ月も帰国するのだからそれなりに準備は必要なはずだ。特にナルの場合、それはそれは膨大な量のデータなり本なりを持って帰るのは間違いないだろう。それならば帰国することは少なくとも一週間前程度には決定していたはずだ。

「おまえが……」

ナルは反射的に言いかけてすぐに言葉を止めた。

「あたしが?」

「……いや、なんでもない」
ナルはばつが悪そうに言うとそっぽを向いた。麻衣はそんなナルを探るように見上げる。

彼は自分に都合が悪くなるとそっぽを向くのだ。
「なによ。気になるじゃん」

「なんでもない。……悪かったな、話すのが遅れて」
ナルは探ることを許さないかのようにふいと背を向けて応接室のソファへと向かった。麻衣はその様子を眼で追う。

なんだか歯切れが悪い。
「事務所は麻衣がいられる日は開けておいていいから」

ソファに座り手に持っていた本を開きながらナルが言ったその言葉に、麻衣は眉を上げた。

自分の裁量で事務所を開けるかを決めて良いということは、つまり、
「リンさんも行くの?」

「ああ」

「じゃあ、またまどかさんがこっちに来るの?」

「今回は来ない」

「なんで?」
以前二ヶ月程も帰国していなかった際に、まどかが代理所長として派遣されてきたことがあった。それ以降ナルは里帰り程度の期間しか帰国していなかったし、そもそも帰国すること自体が稀であった。そんな中、今回の渡英期間は三ヶ月だ。再び代理所長が置かれても不思議ではない。

そう思っての麻衣の質問であったが、ナルは淡々と理由を述べた。
「今はデータの収集を急いでいるわけでもないし、安原さんも調査には参加出来ない。そもそも今回はそのときとは違って執筆が目的の帰国だ。僕は元々理論の人間でデータ解析は専門ではない。リンが解析作業を出来ればいいんだが、今回はクロックの誤差を減らすためにメカニックのラボの方に集中したいと言っているんだ。だから、まどかには執筆作業のバックアップに回ってもらうことにした」

「そっか……」
執筆が目的ということは確実に二ヶ月では終わらず三ヶ月は掛かるだろう。

普通論文はもっと時間を掛けて書き上げるものだから、ある程度は書き上げていて先が見えているので集中したくて帰国するか、暗礁に乗り上げたまま進まないので資料なり何なりを得るために帰国した方が都合が良いかのどちらかだろう。

どちらにしても、そう短くはない期間彼は日本にいないということに変わりはない。

そして、そのことで自分が悲しむ権利は無い。

もし権利があったとしても、それを口にすることは、出来ない。

空虚さを感じる笑みを浮かべて麻衣は俯いた。変に空いた間にナルが麻衣を振り返る。
「……帰って、来るよね?」

ぽつりとした言葉が空間に染み渡った。

声が喉に張り付く。
「そのつもりだが……」

ナルは質問の意図を推し量ることが出来ずに、眉を顰めた。麻衣は俯いたままなのでナルからは表情が窺えない。

初めから「二、三ヶ月帰国する」と言っているのだから、二、三ヶ月すれば日本に戻って来ることは明らかだろう。

何故麻衣がこんな質問をするのか、ナルにはわかるようでわからない。

普段はあんなにもわかりやすい人間のはずなのに。

「……何か不都合でも?」
ナルの言葉に、はっとしたように麻衣は顔を上げた。ナルの表情を見せない声が、僅かに不機嫌そうな音を含ませているのに気付いたからだ。常の声音とは本当に微かな差でしかないが、その差がわかるぐらいには長い付き合いだ。

「違う違う! 別に帰ってきて欲しくないなんて一言も言ってないでしょ」

ナルとしては、麻衣が帰ってくるよね、と念を押して確認したので、自分が渡英することに何か不都合があるのか、というつもりで言った疑問であった。それを麻衣は何を勘違いしたのか、帰ってきて欲しくないと思っていると誤解されたと受け取ったようだ。

人とコミュニケートする上で忍耐は必要なものだが、ナルは生憎そんなものは持ち合わせていない。研究に対してならいくらでも根気強さを見せ付けるのだが、殊、人との付き合いとなるとその忍耐力は影さえもなくなる。

ナルは溜め息を一つ吐くと、手元の本に視線を落とした。

聞きたいことは聞けずじまいだが、わざわざ説明するのも面倒くさい。
「……そんなに怒んなくてもいいじゃん」

麻衣は更に勘違いを重ねていたが、もはやナルに誤解を解く気は全くない。だから、相手をしてやる気もない。

麻衣は手元の本から視線を上げる様子もないナルから視線を外し、自身のデスクへと視線を落とした。

眼の色が、翳る。

すぐ近くにナルはいるのに、伸ばしても、伸ばしても、手が届かない。

どんどん、どんどん遠くへ行ってしまう。

あたしだけ、取り残されてしまう。

早く、そして速く、進まなければ。

追いつけない。    みんなにも、ナルにも。



お願いだから    




お願いだから、これ以上遠くに行かないで。







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