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06 つかの間の天国
あの日から、何かとあれば考える。
安原が休み始めてから、極端にこの事務所は静かになった。 ナルとリンは一日のほとんどをそれぞれの部屋に篭って過ごしているから、元々この事務所での音といえば大概が麻衣か安原のものでしかなかった。そのため、その片割れである安原が居ないとなると話し相手のいない麻衣は静かになるしかないのでこの寂然とした雰囲気も納得できる。静寂の中に落ちるのはコンピュータの稼動音ばかり。普段はまったくといっていいほど感じない外界の雑踏でさえ微かな気配を現しているのだから、よほどの静けさなのだろう。 イレギュラーズでも来れば気晴らしにもなるのだが、そう都合よくは現れてくれない。 「麻衣!」 「え?」 ボーッと考え事をしていた麻衣は、突然の声に無意識的に顔を上げる。ふわふわと上空を漂っていた思考は鋭い声に引き戻されたもののまだ定位置に配列し切れていないのか、名を呼ぶものが誰の声だったのかを判別するのがワンテンポ遅れる。 「うわっ!ナル!」 そこには、存外近い所にナルの顔があって、麻衣は急いで上体を仰け反らせた。その瞬間、急に心臓の音がうるさくなりだし顔が赤くなっていくのを自覚し、ますます心臓がうるさくなった。麻衣は落ち着け落ち着けと心の中で念じながら、赤らんだ顔を隠すように両手で自分の頬を包む。心臓の音がこんなにも早鐘を打つのは、急に大きな声を出されて驚いたからだと心の中で言い訳をした。 腰を屈めていたナルは、麻衣の挙動不審な行動など全く気にする素振りもなく、少し怒ったような顔つきのまま姿勢を元に戻し、手に持っていた紙の束を麻衣のデスクに乱暴に落とした。 「お前、また寝ていただろう」 ナルの眉間に皺が寄っている理由がわかった麻衣は、急いで否定した。 「寝てないよ!しかも、またって何よ。またって」 「お前にはそう言われるだけの実蹟があるということだ」 「失礼な!」 「事実だろう?つい先程も寝ていらっしゃったみたいですし」 「だから寝てないって言ってるでしょ!ちょっと考え事してたの」 麻衣の弁解にも、変わらず疑うような顔をしたままナルはソファへと向かう。麻衣はその様子を目で追った。 「お前が考え事とは珍しいな」 「どういう意味だ!」 ナルはソファへ身を沈めると、手に持っていた本を開いた。 「そのままの意味。慣れないことをしてそのまま寝ていたんじゃないのか?」 「だから、寝てないってば!」 一段と大きくなった麻衣の声に、ナルは溜め息をついた。 「どちらにしろ仕事には関係ないことだろう」 「う゛〜〜。それはそうだけども……」 麻衣の声は段々と小さくなり、ボソボソと口ごもった。 ナルは本へと落としていた目線を上げると、呆れたような視線を麻衣へと向けてきた。 「馬鹿。認めてどうする。減給だな、減給」 「げっ!それだけは勘弁して!」 慌てて麻衣が立ち上がると、ナルが僅かに笑った。それは、口の端だけで笑ったような、麻衣の反応をおもしろがっているような笑みだったけれど、滅多に見ることのできないナルの作っていない笑みに、麻衣は再び顔が真っ赤になり慌ててナルから顔を背けて座った。 「冗談だ」 まだ僅かに笑みを含んだような声は、いつもよりほんの少しだけ、温かい日差しのような、何かを見守っているような優しい響きを持っていた。もしかしたら、麻衣がそう聞こえただけかもしれないが、それは確実な温度をもって麻衣の耳へと届く。 「も、もう!人で遊ばないでよね!」 麻衣は照れ隠しなのか、怒ったような口調になる。いや、実際少しだけ怒ってはいるのだろうが。 「遊ばれるのが悪い」 ナルはいつもの声音に戻り、ついと目線を手元の本に戻す。 麻衣はキッとナルを睨んだが、その顔は、まだ赤いままなので全く説得力がない。それ以前に、ナルはもはや麻衣を見てもいないし、見る気配もない。無駄話は終わりだ、ということだろう。長年の付き合いの賜物なのか、それをすぐに悟った麻衣は頬を膨らませつつもデスクチェアに腰を下ろした。言いたいことはたくさんあるが、どうせ無視されるのが関の山だ。奇跡的に無視されなかったとしても、確実に叩きのめされる。 我が身が可愛けりゃあ、諦めろ。 麻衣は自身に言い聞かせた。なんだかあまり嬉しくないが、これも長年の付き合いのタマモノだ。 十分にわかっているはずなのに、毎度毎度言い合いになるのは麻衣の性格というべきなのか、ナルが変わらないというべきなのか。麻衣はときどき、いや、しばしばナルにつっかかっては、完膚なきまでに討ちのめされ、諦めも肝心ということを再確認させられている。 麻衣が心の中でブツブツと文句を言いながら仕事に戻ろうと、先程ナルがデスクの上に置いた、というより落としつけた書類に目を向けた。すると、タイミングを見計らったようにナルが背後から声を掛ける。 「そこの書類、今日中にまとめろ」 視線は本から離さず、声だけを寄こす。 「げっ!」 麻衣は、書類の束を手に取ると思わず声を上げた。量自体はいつもと変わりがない。これぐらいの量なら、確かに今日中に終えることが出来るだろう。だけど、問題は量ではない、その中身なのだ。 「これ、全部英語じゃん」 「ああ、安原さんがいないからな。だから、そんなに難しい内容ではないものにしておいた」 さらりと馬鹿にされたのだが、否定できないのが悔しい。 「まとめるとは具体的に……」 「データベース化と各章のタイトルをピックアップ」 「うげ。データで送られてきたんじゃないの?」 「残念ながら郵送だな」 「……今日中?」 「今日中。なんだ、不満か?」 「不満というかなんというか。人には得手不得手があるわけで……」 「減給の方がよかったか?」 「いえ!滅相もない!喜んでやらせていただきますともー!」 言葉は前向きだが、表情は半泣き状態。今日中に終えられるかわからないが、残業決定なのは確実だ。 優雅に足を組んで読書する暇があったら自分でやっちゃえばいいのに、と思ったけれども絶対に口にしない。今更ではあるかもしれないが、保身第一。心の中でそう念じながらしぶしぶではあるがなんとかかき集めたやる気も追い討ちを掛けるような無感情な声に出端を折られる。 「スペルチェック怠るなよ」 二度手間は取りたくないんでな、と付け加えてきたのがさらに癪に障る。 そんなに言うなら自分で……いや、保身保身。 「はいはい。わかりましたよーだ」 口を尖らせて言ったのが気に障ったのか、痛いほどの視線を感じたが麻衣はあえて気付かない振りをした。それに対して何故か、不条理とも思える溜め息を投げかけられる。 「その前に、お茶」 「……はーい」 麻衣はげんなりとした声で返事をした。 back/text top/next |