05 いざ、尋常に











 

独特の音と振動を感じ、安原はシャープペンシルを置いた。つい先程も使っていたはずなのにもう既に机いっぱいに広げている本やらノートやらに埋もれてしまったようだ。プリントを何枚か取り上げバイブレーターで存在を主張している携帯電話を見つけ出すと、それを片手で取り上げる。ディスプレイで確認しなくともメールの相手は誰かわかっていた。

メールに目を通し素早く返信を打つと、カチリと音をさせて携帯電話を閉じた。

「効果は上々のようですね」
内心に僅かな罪悪感はあるものの、自然と口角が上がってしまう。安原はシャープペンシルを再び手に取りながら、今後のことについて思考を巡らせた。

まだまだやることはある。外堀を固めることが大事なのだ。

「でも、取り敢えずは目の前の壁をば……」

独り言ちながら机の上の参考書に視線を落とし、勉強に取り掛かろうとすると控えめなドアのノック音が鳴った。

「はい」

声を掛けながら扉に目を向けると、母が戸を開けたところだった。といっても、現在この家には母と自分しかいないのだから、考えるまでもなくノックの主は母だということが安原にはわかっていた。
「お電話掛かってきたわよ」

そう言って電話の子機を差し出す。デスクチェアから立ち上がりそれを受け取ると、安原は母に尋ねた。

「誰から?」

「渋谷さん。アルバイト先の方だとおっしゃっていたけど」
その名前に、安原は僅かに目を丸くして、自身の手の中で保留音を鳴り響かせている子機をまじまじと見た。所在無げに立っている母に礼を述べるとドアを閉めて椅子に戻った。

何の用件であろうか。

ナルが安原に電話を掛けてくることなど滅多にない。SPRでアルバイトを始める以前は調査依頼が入ったときに電話が掛かってきたこともあったが、アルバイトを始めた後はそれもほとんどなくなった。事務所で直接伝えれば良いのだからそれも当然といえば当然だ。

安原はゴクリと音がしそうなぐらい深く息を呑む。
何の用があるにしろ、これはチャンスだ。

意識せずとも笑みが浮かんだ。

話題を自身の望むところにどうやってもっていけばいいだろうか。何しろ相手はあの性格を持つ人物だ。用件のみ伝えるとさっさと通話を終えてられてしまう可能性が高い。脳をフル回転させてパズルを幾通りにも組み立てると、保留音を解除すべく着信ボタンを押した。
「もしもし。お電話かわりました、安原です」

本人であるのかという僅かな疑いがあったが、それを表面には出さない。

『渋谷です。お時間大丈夫でしたか』

受話器から聞こえる声は、紛れもなく件の人物のものであった。僅かに不機嫌そうに聞こえるのは思いのほか長く待たせてしまったためだろうか、それともこれが普段どおりの彼であっただろうか。

「ええ、大丈夫です。どうかなさいましたか」

『しばらく、帰国することになったので一応伝えておこうと思ってご連絡しました』

「これまた、タイムリーな」

『は?』
ついつい本音が出てしまい、当然訳がわからないであろう電話の相手からは怪訝そうな声が聞こえた。

「いえ、こちらの話です。どのくらい行かれるのですか?」

話題をもっていき易くなったな、と思いつつ安原はデータを集める。

『2、3ヶ月程度かな』

「また随分と長いんですね」

『ここしばらく帰ってなかったので、データもたまっていますし、執筆作業なら向こうの方が捗りますからね』

「その間事務所はどうされるんです?」

『平常どおりとまではいきませんが、一応開けておこうと思います。麻衣もいますので』

「谷山さんにはもう伝えたのですか?」

『今から伝えますが、それが何か?』
何故そんなことをわざわざ聞くのか、とでも言いたげだ。これからしばらく休暇を取っている安原にも伝えるのだから麻衣に伝えるのは当然のことだろう。

「何かってことはないのですが、最近谷山さん不安定なので少し心配になっただけです」

『麻衣が?』

「ええ。僕が休み始める少し前ぐらいでしたか、体調不良で休んだことがありましたよね。あの辺りからです」
その頃を思い出しているような口調で言う安原の言葉に、受話器からは相槌も返ってこなかったので安原はそのまま続けた。

あまり間を空けてはいけない。切られるかどうかの瀬戸際を渡っているのだから。

「ずっと何かを考え込んでいる様子で、少し思いつめているみたいなんですよね。精神的に脆くなっているようにも見えて」

『そうだとしても、僕の帰国とどう関係が?もっと言えば、それが僕とどう関係があるのです?』


この人は、相変わらず。


なんの感情も窺わせないナルの声に、安原は内心溜め息を吐いた。いつになったら成長するのやら、そんな失礼なことを考えつつ相手を言いくるめるべく自身を叱咤する。簡単に言いくるめられてくれる相手ではない。

いや、言いくるめるのは不可能だろう。言いくるめられなくともほんの僅かでも彼の意識に引っ掛かればいいのだ。彼が少しでも気にしてくれたら。
「部下のことを気に掛けてやるのも上司の役目では?」

『世間一般がどうであろうと僕にその義務はありません』

「本当に?」

『何がですか』


「本当に、ただの上司ですか?所長はそう思っていらっしゃるのですか?」



『僕は』



僅かな間。


この僅かな思案している間が如実に彼の気持ちを表しているというのに、彼自身は一向に気付かない。
『僕はただの上司です。それ以外になにかあるとでも?』
盛大に溜め息を吐きたい気分だ。
相手が彼でなかったら間違いなくわざとらしくも聞こえるほど深く溜め息を吐いているだろう。

隔靴掻痒とはこのことだ、と安原は思った。あと少しなのに。こんなにも近くに、答えは見えているのに、何故。
「五年以上も顔を突き合わせている相手にその言い草は冷たすぎるのでは?」

『僕はこういう性格なので』

「あなたはそうでも、谷山さんは違うと思いますけど。少なくとも所長のことをただの上司だ、とは思ってないように見えますが」
ナルは少し沈黙する。その隙を逃すまいと安原は畳み掛けるように言った。

「追い詰められているときに僕も居らず所長もいらっしゃらない。事務所もいつもより開ける日数が減れば滝川さんたちに会える確立も減ります。谷山さんにはご家族もいらっしゃらないですし、そんな心細い状況ですと今以上に不安定になってしまうのではないかと僕は心配で」

『僕に……帰国するなとでも?』

「まさか。まあ、それに越したことはありませんが」
悪びれもせずに言う、底を見せず意図を測りかねる口調。いや、意図などナルにもすでにわかりきっている。わかりきっているからこそ、ナルは溜め息を吐いてしまう。

『貴方が気を遣ってやればいい』

「もちろん気にはしていますが、何分僕も忙しいので……。出来ればバイトを休むなんてことはしたくはないのですが、一応将来が懸かっていますのでそういうわけにもいきません」

『それならば他の連中に気にするように言えばいいのでは?喜んで相手をしてやるやつがたくさんいるでしょう』


「もちろん、そうですね。でも、僕は所長に伝えたかったんです」


声音を強めて言った。

相手は、どうでるだろうか。しばし考えるような間が空いた。


『……そうですか。それならばもう貴方の目的は達したわけだ』


切られる。安原は瞬時に悟りナルの語尾を奪うように早口で言った。

「もう一度聞きます。あなたにとって谷山さんは部下でありそれ以上でもそれ以下でもないと?」

『同じことを二度は繰り返しません。僕は帰国の旨を伝えるためだけに電話したので失礼させていただきます』
溜め息と共に吐き出されたような言葉を最後に、それきり安原が口を挟む間もなく通話は打ち切られた。それは一方的な会話の断絶であったが、安原は然程気にしていない。むしろナルがあそこまで長く会話に付き合ってくれるとは思ってもいなかったので、驚きさえもしている。

話をしていると正直なところ焦れったく、あまりに遠回りでもどかしくなるような気もするが、なにしろ相手が彼であるのだから仕方がない。それに、彼はあのような言い方をしていたが、おそらく    

「とりあえず、収穫ありですかね」
安原は上機嫌そうな声を出しいつもの笑みを刻むと、子機をあるべき場所へ戻すために部屋を後にした。











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