02 ぬるま湯の中











「谷山さん、この前、大丈夫だった?」

仕事もひと段落つき休憩のお茶タイムの話題に、あ、そういえば、と安原が思い出したように切り出した。

イレギュラーズの面々もそう度々顔を出せるほど暇ではないので今日は安原と麻衣、二人だけのお茶タイムだ。もちろんナルとリンもいるにはいるのだが、例によって例のごとくそれぞれの居城に篭りっぱなしである。その、一日中屋内という日陰で過ごしている不健康を着て歩いているような仕事第一の二人には、麻衣が自分たちよりも先にお茶を運び、そしてその後で安原とのお茶タイムにありついた。

麻衣は安原の問いに対し、少し間を空けて考えるような素振りを見せる。すぐに見当をつけると、ああ、と納得した。

安原の言う『この前』とは、三日前の、麻衣が「体調が悪い」と仕事を休んだ日のことだろう。その日以降安原とシフトがかぶることがなかったため、すでにあれから三日が過ぎていたのだ。

「この前休んだときですよね。すみません、ご心配掛けて」

「いや、それはいいけど……」

安原は語尾を濁しながら伺うような視線を麻衣へと向けた。それに対し麻衣は苦笑しながら、おどけたように言う。
「ちょっとお腹が痛くて。お薬飲んで寝ちゃったらすぐに治りましたよ」

理由を腹痛にしたのは男である安原が突っ込み辛い原因を察知させるためだ。聡い安原は恐らく気付いたのだろう、その件についてはそれ以上何も聞いてこず、話題は他愛もない世間話へと自然に移っていった。

ある程度の時間が経ち、手元のカップが空になると自然と二人はそれぞれのデスクに戻る。こういうときの自然なタイミングは、長年の付き合いの賜物と言って良いだろう。


それにしても――


麻衣はデスクを整理しながら、軽く溜息を吐いた。肝心の仕事が特に見当たらないのだ。アルバイトで時間に追われるほど忙しいのは勘弁願いたいが、暇すぎるのも考え物だ。とても贅沢な要求だとわかってはいるが、暇すぎず忙しすぎずの、ある程度のバランスが欲しいのが本心である。この暇加減では時間が流れるのが非常に遅く感じてしまう。手元には郵便物の仕分けや簡単なファイリング、その程度のものしか残っていない。対する安原の手元には、英文が見え、どうやら海外から送られてきた論文の仕分けをしているらしい。麻衣から見れば安原の仕事は遥かに難しく見えるのだが、安原自身からすればその仕事も麻衣の仕事と似たようなものらしく、二人はおかわりしたお茶を片手に会話を続けていた。

しかしながら、所属している大学が違うと二人に共通する話題も限られてくるというもので。最近世間を騒がせているニュースから煮え切らないような天気、篭城している二人の様子、これらを一通り話してしまうと残る選択肢はほとんど残らない。安原はふと思い出した、残る選択肢でもあるイレギュラーズの話題を出した。

「最近、滝川さんを見ていませんねぇ」

「あたしも見てないなぁ。この前来たのは、んーと……」

麻衣は記憶を辿るために、僅かに見上げながら手元の作業を一時中断した。安原は、記憶の捜索は麻衣に任せ、手元の資料を忙しなく捲る。

麻衣は今日を基準に一日一日遡っていく。


今日は誰も来ていない。そして昨日も。一昨日はあたしは休んで――


脳の許容量からすれば僅かでしかないのだろうが、膨大にしか思えない記憶を紐解く。

森の中から一本の木を捜すように。
とはいえ、多くとも一、二ヶ月の記憶であるから、林程度の規模かもしれないが。


綾子は二週間ぐらい前に来てくれて。ジョンも綾子と同じぐらいだったかな。真砂子は最近益々収録が忙しいみたいだし。ぼーさんは、


「うわぁ!一ヶ月半ぐらい前ですよ」

「そんなに経ったかなぁ……」

安原も自身の記憶を紐解く。麻衣の勝手なイメージでしかないのかもしれないが、安原なら短時間で容易に出来そうだ。
実際、思い出すのは早かった。勝手なイメージではなかったようだ。

「ああ、そうだそうだ。ケーキを持って来てくれたんですよね」

「そうそう!あたしその前の日友達とケーキ食べちゃってて。食べるかどうかすっごく悩んだんですよね」

「でも結局食べちゃったんだよね、谷山さん」

「はい。それも、残った分をお持ち帰りまでしちゃいました」

麻衣が軽く肩を竦めながら悪戯っぽく舌を出すと、二人は顔を見合わせて笑った。

一頻り笑い終えると、安原は手元の作業を再開する。

「それにしても、みなさん最近お忙しそうですね」

麻衣は、安原が作業に戻るのを見止めると、自身の手元も動きを再開させた。

「最近事務所にいらっしゃる回数も、みなさん減りましたし」

「月日も経つと、自分も気づかないうちに色々と変わっているんですよね」

「いつまでも、昔のままじゃいられないしねぇ」

「むかし……」

麻衣は緩く微笑んだ。過去を振り返って懐かしむように。


昔のままじゃ、いられない。


どこか、寂しそうに。

「谷山さん?」

呼びかけられた麻衣がはっととしてそちらを向くと、安原が心配そうな顔でこちらを伺っていた。麻衣は何でもないように、いつもの風を装って笑むと、手元の作業に視線を戻す。
外では、水を溜めた両手から雫が零れ落ちるように、雨が降り始めた。

「そうですよね」

まるで、その言葉が合図であったかのように沈黙が流れ、室内では雨音が静かに音を紡いだ。

昔のままじゃ、いられない。


みんなも。


あたしも。




雨足は、これまでの躊躇いが嘘のように強くなっていった。










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