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麻衣から出された玉露に一口口をつけ喉を潤すと、肩口で切りそろえられた髪を僅かに揺らしながら真砂子は首を傾げた。 「ナルは所長室ですの?」 彼女のよく通る声の端々には、もう特別な感情は含まれておらず、ただ単にふと気になったことを尋ねただけに過ぎない。 もしなにか含まれているとすれば、長い縁からくる家族愛にも似た感情のみだ。友情というにはあまりに当然のものすぎて、愛というにはあまりに熱が足りず、いわば熱くもなければ冷たくもないぬるま湯のようなものだ。だからといって、ただの仕事相手というのも寂しすぎる。しかし、友達というには相手が悪すぎたのだ。 ナルへの感情を、そんな微妙で絶妙ともいえるバランスに落ち着けた真砂子の問に、麻衣は軽く肩を竦めてみせる。 「例のごとく大量の本にご執心中」 「相変わらずですわね」 麻衣はチラリと閉ざされたままピクリとも動かない所長室の扉を覗う。 「一生変わらない気もするけどね」 「どうしてあそこまで執着できるのかしら。呆れて尋ねる気にもなりませんけれど」 「本当にねぇ。毎回本を運んでくるこっちの身にもなって欲しいもんだわ」 「肉体労働担当は大変ですのね」 真砂子の言葉に麻衣は少しムッとした表情になる。 「肉体労働担当じゃないもん」 「事実でございましょ」 「ふん!ナルそっくり」 「あら、光栄ですわ」 「……本当に?」 神妙な面持ちをした麻衣が覗き込むようにして尋ねると、真砂子は眉を寄せ、わざとらしく頬に手を当てて顎を僅かに引き、考えるような仕草をした。 「…………やっぱり複雑な気持ちですわ」 真砂子は眉間に皺を寄せ麻衣を上目遣いに見上げると、すぐに耐え切れずに表情を緩めた。麻衣もつられたように表情を崩し、結局お互い顔を見合わせて笑い転げた。 ひとしきり笑い終えると、麻衣が息を切らせながら言った。 「なんかさ」 真砂子は「え?」と息を整えながら麻衣の顔を見る。 「あたしナルが本読んでると安心するんだよね」 途端に真砂子は変なものでも見るような顔をした。麻衣はそれを苦笑ともとれるようなふわりとした笑顔で受け止める。 「なんでだろ。相変わらず、だからかな」 首を傾げると、以前よりも少し伸びた色素の薄い髪がさらりと揺れた。あたたかい陽光に照らされて、きらきらと眩しい。 「……随分毒されていますわね」 「うるさいなー。仕方ないじゃん。あたしだって理解不能」 口を尖らせて拗ねたように頬を膨らませる様は、五年前と何ら変わりない。だが、確実に変わったものもある。 「でも」 真砂子は先を促すように麻衣を見詰める。
眩しいのは彼女の髪だろうか、彼女の笑顔だろうか。それとも、彼女の想いだろうか。 「目標に突き進んでるってかんじがしてさ。呆れもするけど、でも、なんか好きだな」 麻衣は所長室の方を振り返りながらどこか晴れ晴れとして誇りに満ちているような笑みを湛えている。
「え?」 真砂子の言葉に麻衣は所長室から真砂子へと視線を移す。真砂子はちらりと所長室を覗うとすぐに麻衣に目線を戻し、思わず同性である麻衣さえも見蕩れてしまいそうな顔でにっこりと綺麗に微笑みかけた。 「麻衣がナルを好きなことぐらい、知っていますわ」 「なっ!」 途端に真っ赤になった麻衣は、恐ろしい勢いで手と首を左右に振った。 「違う!違う違う!そんな意味じゃなくて!」 「はいはい」 麻衣の必死の弁解もどこ吹く風。真砂子は全く聞く耳を持たず、涼しい顔で少し冷めてしまった玉露をすする。 「あたしはただ単に尊敬できるとかそういう意味で言っただけで!」 「でも好きなんでしょ?」 「だ、だから、それは 「あら」 真砂子は口をつけていた湯呑みを離すと、麻衣の後方
麻衣は慌てて立ち上がる。眉間に皺を寄せているナルは、麻衣の言葉を最後まで聞かず少しも相手にしようとしない。 「お前はいつまで遊んでるんだ?」 「いつからそこに!」 麻衣の大声にナルは眉間の皺をますます深くした。 「事務所の所長が事務所のどこにいようと勝手だろう」 「そういう問題ではなくて!」 「うるさい」 ナルは本当に嫌そうにそう言うと、腕を組み絶対零度の笑みを湛える。 「そんなにお暇なら仕事を増やしましょうか?」 ナルのわざとらしい敬語に、麻衣はすーっと血の気が引いていくのがわかった。 「ちょうど本部から書類が送られてきたんですよ、ざっと三百枚ほど」 本部といったら当然イギリス。イギリスというからには当然英語。 三百枚って、教科書一冊……いや薄い教科書なら二冊ぐらい? 「すみません申し訳ありませんごめんなさい!」 ただでさえ頭は大混乱なのだ。麻衣には最早謝ることしか出来ない。知っている限りの謝辞を次々に言い、語彙が底を尽きると腰を九十度に曲げた状態でぴたりと停止した。同時に思考も停止。 麻衣を睨むような目線で見ていたナルは、わざとらしく息をつくと、「所長室にお茶」と棘を隠しもせず怒ったような声で言うと勢いよく扉を閉めた。 閉まった扉の音に麻衣は再び思考を引き戻される。暫しの緊張を解くように盛大に息を吐くと真砂子を恨めしそうな目で睨んだ。 「真砂子のせいだかんね」 「あら、自業自得じゃなくて?あたくしは騒いだりしてませんもの」 「なにおう!」 「本当のことでしょう?麻衣が大きい声を出したんですもの」 「あれは真砂子が……!」 麻衣は言い掛けて途中で止めると、顔を真っ赤にした。 「わ 先程ので懲りたので、一応音量は控え目。心の中では、これ以上は出し切れないというくらいの大音量だ。 「もう!聞かれてたらどうすんのよ!」 麻衣は背後を気にしてこそこそとした声で言うが、真砂子は全く気にしない。 「それはそれでいいんじゃありませんの?」 「他人事だと思って!」 「他人事ですもの」 「……聞こえてないよ、ね。うんそうだよね、さっきの様子じゃ。なんでもないような顔してたし!」 自分に言い聞かせるように言う麻衣に真砂子は澄ましたような顔で言う。 「ナルですものねぇ」 「そ、そうだよねぇ……」 麻衣は絶望のどん底にでもいるかのような声を出すと、ぼすりと音をさせながらソファに腰を落とした。 「……やっぱり聞いてたかな聞こえてたかな聞こえてたらどーうーしーよーう 麻衣は忙しなく言うと、頭を抱えた。 「やばいやばいやばい」 一人でぐるぐるとしているパニック状態の麻衣を尻目に、真砂子はのんびりと湯呑みの残りを飲み干した。 「そんなことより、早くお茶を淹れることが先決だと思いますけれど」 「え!あ、そうだ。忘れてた!」 真砂子は「ついでに、あたくしにもお替りくださいます?」と言い顔に笑みを貼り付けて湯呑みを差し出す。そんな真砂子に麻衣はむうと口を尖らせながらも湯呑みを受け取ると、慌てて給湯室へと駆け込んだ。 真砂子は麻衣の後姿を横目で見ながら思わず笑うと、麻衣に聞こえないようにこっそりと言う。
あら、セーフじゃありませんわよ。 >back |