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幸せのカケラ 一度降り始めた梅雨の雨は、弱まったり強まったりを繰り返しつつ降り続いた。
なんにせよ、電気代がもったいなくて家ではエアコンを最低限しかつけない麻衣としては非常に助かることだ。一日中冷房で空調を整えているなんて非常に不経済な話だが、自分のふところから出るお金ではないのでありがたく涼ませていただく。 とにかく、事務所は夏でも常に快適である。うだるような暑さとは無縁の場所なのだ。 けれど、時にその快適さがあだとなる場合がある。風邪を引いているとき、冷房が効きすぎているとき。
麻衣は小さくくしゃみをした。 今日は、まだ安原は来ていないらしい。ナルとリンは出勤してから一度も見ていないが、入口のドアの近くにある傘立てに二人の傘はあるのでおそらくそれぞれの部屋にはいるのだろう。 「さむ」 麻衣は両肩を擦りつつ零す。 個々の部屋でそれぞれ空調を調節できるので、出勤してすぐに応接室の冷房は消した。しかし、午前中から溜め込んでいた冷たい空気は強固に居座っているようで、なかなか抜けきれない。 点けっぱなしにするなよな、と麻衣は思わず内心で零す。夏ならば設定温度が適切であればどれだけ点けっぱなしにしようと文句が出るはずもないが、まだ時期的に早すぎる。あの服装をやめれば良いのに、と夏でも長袖の漆黒を思い出しながら所長室を睨むと、まるでそれを待っていたかのように今まで開かずの扉のように固く閉じられていたその扉が開いた。 麻衣は自然と扉の動きに注目し、僅かに驚いたように黙って見ていると、出てきたナルと目が合う。すると、ナルも少々驚いたような顔を見せた。 「来ていたのか」 彼はどうやら麻衣が出勤していることに気付いていなかったらしい。 「うん。大分前にね」 「なら、お茶」 予想していた通りのいつもの台詞を聞いて、麻衣は密かに笑った。それを見逃さなかったナルは訝しそうな顔をする。 「何だ?」 「何が?」 「今、笑っただろう」 「別に、なんでもないよ」 ナルが眉間に皺を寄せる。機嫌を損ねてしまったのだろうか。麻衣はやべ、と小さく舌を出しつつ立ち上がった。 「お茶でしょ。すぐ淹れるから、ちょっと待ってて」 追求を逃れるために給湯室へ非難する。そのときにちらりと横目で伺ったナルはまだ何か言いたそうな顔をしていた。 あれは、『自分が知らない理由で笑われた』ことに対して不快に思ったのだろう。ナルという人間に慣れている麻衣から見れば、その様子も、なんだかこどもっぽくておかしいのだが、これはもちろん麻衣だけの秘密である。本人に言おうものなら物凄い毒舌でもってえらい目に遭いそうだ。 いや、確実に仕留められる。 ケトルに水を入れてお湯を沸かす。考えながらの作業でも、もう慣れた動作だ、淀みはない。 「麻衣」 「うわっ!」 突然の声に驚いて振り向くと、給湯室の入口にナルが立っていた。 「びっくりした。ちょっと待っててって言ったじゃん」 考えていたことが考えていたことだけに、麻衣は内心非常に焦った。胸に手を当てながら大仰に息を吐く。 「それより、どうしたんだ、それ」 「え?」 ナルは顎で麻衣を指す。 「格好」 ナルに言われて、自身を見下ろした。
麻衣は肩を竦めて見せた。 学校から事務所に通勤途中、雨に降られたのだった。ちなみに、これが先のくしゃみの原因でもある。 「傘は?」 「えー……っと」 「馬鹿」 「馬鹿って何よ!馬鹿って!」 「梅雨に傘を持ち歩かずに濡れたやつには、それで十分だ」 「うっさいわねー!ちゃんと持ってたけど、途中寄った店で盗られたの!」 可愛らしいドット柄で結構気に入ってはいたが、幸いなことに安いビニール傘であったため、傘を仕方なく諦めた。麻衣が事務所への道のりをしばらく歩くと、まるでお約束、というばかりにそれまで降っていなかった雨が突然降り出した。雨宿りをすることもできたのだが、すでに事務所の近くまで来ていたのでそのまま走ることにした。程なく事務所に着き、短い時間しか雨の中にはいなかったのだけれど、梅雨の雨は強力で、麻衣は瞬く間に濡れ鼠となったのである。持っていたタオルで一応は拭いたのだが、所詮はハンドタオル。残念ながら、全身の水分を拭き取るという画期的な効果は得られなかった。 ナルはじっとむくれた麻衣を見るとそれ以上は何も言わず、ふっと背を翻した。おそらく、興味がなくなったのだろう。 「全く、何なんだっつーの!」 麻衣はムッとしながら、温めておいたティーポットに茶葉を放り込んだ。少々荒っぽくなってしまうのも仕方がないだろう。 「大丈夫?ぐらい言えないのかねー、あいつは」 そうは言うものの、ナルにそれが期待できないのはわかっている。こちらが期待する行動は取ってくれないのがナルだ。 期待するといっても、特別な優しさや気遣いなんかではなく、一般的な人ならば当然するだろうというレベルのものである。そこまで多大な要求はしているつもりはないのだが、ナルはそれさえも滅多に満たしてはくれない。 「絶対モテないんだから」 麻衣は拗ねたように口を尖らせる。 とはいえ、世の中には顔がよければ良いという人も少なくはない。あんな性格でも実際はモテているのだから仕様がない。 そして、こうは言ってはいるものの、麻衣もナルのことが好きな者の内の一人であるから、これはもう負け惜しみでしかない。とはいっても、麻衣は顔がよければ良いというわけではなく、所謂、蓼食う虫であるので余計に始末に終えない。 「余計なお世話だ」 ほら、という、いなくなったはずのナルの声と共にバサリと音がする。麻衣が慌てて振り向けば、何かがこちらに近づいてきていた。 「わっ!」 自身の視界が閉ざされる。麻衣は慌てて自分の視界を閉ざしているものを手で掴んだ。
「お前は現実をよく知らないみたいだな。出来るものなら僕だって女性にまとわりつかれたくないものですが」 自信たっぷりの表情は、おそらく先ほどの麻衣の「モテない」発言に対してのものだろう。あまりのナルシストぶりも麻衣にしてみれば慣れたものだ。溜め息一つで流せる。 そして、現実はよく知ってるよ、という言葉は呑みこんだ。 本人があまり、というか全く興味がないらしいので今は恋人はいないようだが、その気になればナルはいつだって恋人をつくることができる。麻衣だってそのぐらいはわかっているし、ともすればナル以上にその事実を知っているかもしれない。 「濡れちゃうからいいよ」 ぎゅっとナルの上着を掴んで、差し出す。ナルは虚をつかれたように差し出された上着を見、麻衣の顔を見た。何度か上着と麻衣の間を視線が行き来すると、わざとらしく溜め息を漏らす。 「馬鹿」 ナルは呆れたように言った。 麻衣は、その言葉に頬を膨らませながらも、本当にそうかもしれない、と思った。 笑顔でありがとうと言って、大人しく受け取っておいた方が百倍可愛いだろうに、どうして自分はこういうカケヒキが出来ないんだろう。 「乾かせばいい」 ナルは麻衣が差し出した自身の上着を掴むと、ふわりと麻衣の肩にかけた。 予想にもしなかったナルの行動に、麻衣は驚いて目を見開く。 「風邪を引くよりマシだ」 無表情で言うナルの顔を見上げる。
麻衣が思わず俯いてしまったのは、これぐらいのことで赤くなってしまった顔を見られたくなかったから。 「……あんがと」 どこか拗ねたままの麻衣の声に、ナルがシニカルな笑みを浮かべる。 俯いてしまっていた麻衣には、その笑みを見ることは出来なかったけれど。 「今度からは、傘を買え」 今度はタオルを放って寄こすと、ナルはさっさと給湯室から出て行った。 麻衣は放られたタオルをじっと見ると、口を尖らせる。
こんなたまにしか見ることのできない優しさに、蓼食う虫のままでもいいかな、とついつい思ってしまう。そんな自分は随分毒されているのだろう。 肩がじんわりと温かくなってくる。少し暗くなっていた心も、じんわりと温かくなった。
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